(記事【1555317】)
わたしの話など、「心にしみる」と過大評価されて恐縮です。
半分以上は、みな、昔の「仲間」たちからのウケウリにしかすぎません。
「合格したところがその子の適正校」というのは、これは本当にしろくまが昔から実感していることなんですよ。
入試ですから、必ず誰かが合格で、必ず誰かが不合格です。なぜ不合格になるのか? 点数が足りないからです…
ただ、それは時間軸の問題であって、その入試日に、合格点数に足りなかっただけ…
灘から京大医学部に合格した子、知っています。
灘不合格で東大寺から京大医学部に合格した子、知っています。
東大寺不合格で大阪星光から京大医学部に合格した子、知っています。
もともと頭よかったのさ、と言うてしまうのはかんたんですが、でもそれは、それぞれ合格した子たちの努力や成果をあまりにも価値がないものとして貶めている気がします。
東大寺がその子に適していたのですよ。
星光がその子に適していたのですよ。
適した空間で、適した学習をすれば、それに見合った成果は出ます。その点、いろいろな学校が受験できる昨今の入試は、ほんとうに幸せなことだと思っています。
そう実感するのは、しろくまが完全統一入試日時代の講師で、兵庫県の塾にいたからです。三月一日たった一回きり…
統一入試の私立がだめなら、地元の公立中学に行くことになる… いや、べつに当時から、「おだやかな」受験計画されていた保護者もたくさんおられましたよ。合格できるところでいいんです、無理はしません、公立中学には事情があっていけないのです… などなど…
ただ、しろくまのいた塾は、みなさん「進学校」「難関校」ねらいの子たちがたいへん多かった… そして、どこかの塾一人勝ち、という状況ではない「塾戦国時代」です。灘中合格者数が20人越えで、日本一でした。
算数しか教えていない塾などふつうでしたよ。やがて国語も教えるようになり、そして理科も教えるようになる…
「国語なんか教えようがないから自分でやりなさい」
みたいな発言をへーきでしていた時代があったんですよ。今のようにしっかり指導が確立している時代からみればほんとうに笑ってしまうでしょ?
でも、灘だけでなく甲陽も昔は灘みたいな語句問題、たくさん出ていたので、語句系はずいぶんと徹底してやりました。
(あ、ラ・サールや愛光は併願できましたよ。でも社会があって、笑いますが社会の対策なんてほんのちょっぴり。飛行機の中でこのプリント読んでおけっ だけで終わっていた時代です。)
大阪の塾は高校受験塾がフツーで、中学受験塾は限られていましたし、国語の計画表なども語句があまり重厚ではない… それに比して兵庫県の塾が計画表に占める語句系がめちゃくちゃ多いのは、「てっぺん二つ」が語句をこってり出題していたからです。
灘が不合格になったら、次は灘高校へむけての受験をさせるっ という保護者もたくさんたくさんおられました。しろくまがいた塾では中学部もできましたが、灘不合格になって、もう一度中学部でチャレンジしてくれるお子さんはほとんどゼロ。そのへんはシビアで、不合格になった塾にはもう世話にならないっ と、他の高校受験専門塾に行ったのです。
三月一日一発勝負! きっと今の入試とは違う、迫力というか緊張というか… 保護者にも子どもにもプレッシャーがあったんですよ。だから、というわけではありませんが…
どうすれば緊張しないか、どういう受験校決定をすればよいか…
どうすれば一点でも多くとれるか… 講師もすごく知恵をしぼっていたのだと思います。いや、実際、しろくまも、真剣に考えて考えて考え抜きました。自分の教科に専念しつつも、自分の教科だけのことを知っていてはやはり通用しない… そういう時代でした。
合格した子の笑顔より、不合格で泣きじゃくっている子たちの姿のほうがしろくまは忘れられません…
だからかも知れませんね、合格できるところを受験して! と、強く思ってしまうのは…
でも、この一発勝負状態がしだいに変わってきました。
奈良の私立でも、灘級とまではいきませんでしたが着々とつけてきた学校が、そしてそれらは統一入試日外だったので「併願」ができるようになってきたのです。京都でも灘の後ろで受験できるところが出てきて、そこが実績を出していたからです。
保護者も「兵庫県」だけにしばられていた感覚から、他府県へ受験していく、という意識も出てきました。
男子ですと、一月十五日あたりに帝塚山か西大和、二月一日に東大寺、そうして統一入試日、という「前受験」が出てきたのです。
しろくまが「合格したところが適正校」と強く思えるようになったのはこのあたりからです。(また続きを書きますね)